かつての上司であり、恩人であるKさんが亡くなった。木枯らしとともに遠くに旅立ってしまった。今は呆然としてうまく言えないが、Kさんは私に仕事の面白さとチャレンジすることを教えてくださった方だった。
Kさんは当時ホテルのオープンに携わっており、私を拾い、育ててくださった。
当初は別部署に配属となったが、後に強引に配下とした。そこは総務部門で、私の苦手な職場だった。しかも、前任者がエキスパートで後継者がそだっていなかったから、はじめは辞退した。現場で司令塔の一翼を担ってきたという自負もあった。しかし、「本人も希望している」と嘘を言ってまで内部調整をしていることを知り、その気持ちが嬉しくてKさんの配下となった。
... 伝票の起こし方も知らない素人の私を責任者とし、それまで属人化されていた仕事のあり方を変えてしまった。私も連日泊り込みでその任に打ち込んだ。そのとき築いた基礎はKさんの退職後に結実するが、ここで述べることでもない。
Kさんは人を使うのが上手な人で、相手の意欲を信じ、まずはすべて任せてしまう。そして、「責任はオレが持つから思い切ってやれ!」と檄を飛ばすのが常だった。妥協案など出せば、顔を真っ赤にしてまた同じ檄が飛ぶ。こういうのは前時代的に感じる人もいるかもしれないが、存外、日本人にはマッチした管理手法ではないかと私は思う。自己責任ならば潔く受け止めてしまう人でも、他人に、それも自分を信じてくれる他人に迷惑がかかるのはいやなものだ。その分、粘りがでてくる。
Kさんと出会わなかったら私は独立していなかったろう。経理、予算、契約といった重責をこなすうちに経営の基礎を叩き込まれ、起業に関心を持つに至った。28歳だった。当時のグループでは50代の人が関わる仕事だった。飛び切りの若造だった。「責任はオレが」の本当の意味さえも、当時はまだわかっていなかったんだ。
今の仕事・・・映像や営業、契約に関する事柄も、地下に築かれた土台の上にある。
Kさんの持ち歌は『とんぼ』だったから、私は持ち歌を『JEEP』に変えた。以来、ずっと歌っていない。Kさんの送別会ではトイレで独り秘かに泣いて、帰り道に道路に転げてまた泣いたのを憶えている。あの日もKさんは『とんぼ』を歌っていた。気持ちの整理がついたら、供養代わりに歌ってみようと思う。