2011年10月28日 (金)

それぞれの人生

Facebook等で交流していると、実にさまざま、人それぞれの人生だなって思う。さらにその背景には家族や恋人、友人がいて、人ひとりの存在って小さなものではない。

他人を認め合うことって素晴らしい。そう思う。年若だから、部下だから、アルバイトだから、アイツ馬鹿だから…といって人を軽んずるのは傲慢不遜。

私たちは他人のすべてを理解することもできないし、出会うすべての人と仲良くなれるわけでもない。だからこそ、出会う人の長所を見いだし尊重するという態度は大切だと思う。

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2011年10月26日 (水)

恩師に捧ぐ

かつての上司であり、恩人であるKさんが亡くなった。木枯らしとともに遠くに旅立ってしまった。今は呆然としてうまく言えないが、Kさんは私に仕事の面白さとチャレンジすることを教えてくださった方だった。

Kさんは当時ホテルのオープンに携わっており、私を拾い、育ててくださった。
当初は別部署に配属となったが、後に強引に配下とした。そこは総務部門で、私の苦手な職場だった。しかも、前任者がエキスパートで後継者がそだっていなかったから、はじめは辞退した。現場で司令塔の一翼を担ってきたという自負もあった。しかし、「本人も希望している」と嘘を言ってまで内部調整をしていることを知り、その気持ちが嬉しくてKさんの配下となった。

... 伝票の起こし方も知らない素人の私を責任者とし、それまで属人化されていた仕事のあり方を変えてしまった。私も連日泊り込みでその任に打ち込んだ。そのとき築いた基礎はKさんの退職後に結実するが、ここで述べることでもない。

Kさんは人を使うのが上手な人で、相手の意欲を信じ、まずはすべて任せてしまう。そして、「責任はオレが持つから思い切ってやれ!」と檄を飛ばすのが常だった。妥協案など出せば、顔を真っ赤にしてまた同じ檄が飛ぶ。こういうのは前時代的に感じる人もいるかもしれないが、存外、日本人にはマッチした管理手法ではないかと私は思う。自己責任ならば潔く受け止めてしまう人でも、他人に、それも自分を信じてくれる他人に迷惑がかかるのはいやなものだ。その分、粘りがでてくる。

Kさんと出会わなかったら私は独立していなかったろう。経理、予算、契約といった重責をこなすうちに経営の基礎を叩き込まれ、起業に関心を持つに至った。28歳だった。当時のグループでは50代の人が関わる仕事だった。飛び切りの若造だった。「責任はオレが」の本当の意味さえも、当時はまだわかっていなかったんだ。

今の仕事・・・映像や営業、契約に関する事柄も、地下に築かれた土台の上にある。

Kさんの持ち歌は『とんぼ』だったから、私は持ち歌を『JEEP』に変えた。以来、ずっと歌っていない。Kさんの送別会ではトイレで独り秘かに泣いて、帰り道に道路に転げてまた泣いたのを憶えている。あの日もKさんは『とんぼ』を歌っていた。気持ちの整理がついたら、供養代わりに歌ってみようと思う。

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2011年10月20日 (木)

戦慄

鉄のごとく強固に思われた独裁政権がソーシャルから始まる革命によって次々と倒れた。隣国の一党独裁体制もソーシャルからの批判を無視できない状況になってきている。声なき民が発言力をもつに至り、世界は劇的な変革のときを迎えた。抑圧されてきた市民が解放されるのは良い。しかし、物事は常に表裏一体だ。光のあるところには必ず影が刺す。

ウォール街のデモはtwitterのハッシュタグが発端であるという。むろん格差社会への潜在的な反感や不安がデモを引き起こしたに相違ないが、これが事実だとすれば、リーダー不在の反政府行動が展開されたこともまた事実となり、歴史的にもまれな現象が起きているのではないかと思う。リーダーが先導することなく、顔の見えない市民の思いの集積がデモを始めたということに驚いている。その驚きは得体の知れない戦慄を伴う。

米国で起こっていることは、遠からず日本にも波及するだろう。政治の季節が再び訪れるかどうかは知らない。が、民の声が適正値を超え過大なものになれば、政治はいよいよ大衆迎合に陥り、混乱をきたすだろう。ソーシャルはまさにアメーバのごとく増殖し、負の温床ともなりかねない。

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2011年10月17日 (月)

変化にシフトする

マスコミや政治とポピュリズムといったことを少し考える機会があったのですが、TVの視聴率・新聞雑誌の購読が落ち込み、マスメディアの影響力が弱まるなかでソーシャルメディアが台頭するのは時代の流れと思いますが、ゆえにソーシャルが優れているということではないと思います。

ソーシャルは情報収集に優れ、伝播力も強い反面、チェック機能が弱く、デマの類も多く流れているのは周知の事実ですが、そのような環境にあっては怪しい新興宗教の如くにカリスマが現れ世の中をミスリードするという危険性があると思います。

新聞テレビがただちに不要であるとするのは早計で、旧来のメディアにはこれまで以上の存在意義が生まれつつあるのだと思います。

そして、思ったのですが、変化にシフトするということは、常に己の存在意義を問いかける姿勢かもしれません。されば他人事ではないのです。

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2011年10月 6日 (木)

一度きりのステージ

偉人の早すぎる死に、思うことは多い。スティーブ・ジョブズの功績・人物については多くの人が書いているからここには書かない。私がいま思っているのは、人はみな志半ばにして逝くという、むごたらしい事実についてだ。

人は志をもって生きる。故に志半ばにして逝く。志の高邁崇高であるか否かは世人が評価することであって、その中身を問わない。それは人が人たるゆえんであって、宿命でもある。

「太く短く」とか「大往生」とかいうのも、いずれも遺された者への慰めであって、本人の意思とは違うところにある。

諦めではない。それは覚悟だ。
メメント・モリ、死を思え。そして、いたずらに死をおそれるのではなく、一度きりのこのステージを駆け抜けていこう。そんな想いを新たにした。

偉人の志は多くの人に受け継がれ、壮絶な人生も人々の胸に刻まれた。合掌。

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